チームスポーツが苦手だ

 スポーツには水泳やランニングのような純粋な個人競技と野球やサッカーのようなチーム競技がある。世間では規律や社会性を身につけるために、特に後者のスポーツが重視されているようだ。結論から言えば、僕はこのチーム競技が幼い頃から苦手だ。親の勧めや兄弟の影響もあって、野球、サッカー、バスケットボールなどに挑戦してきた。しかし、どれも長続きせず、途中で挫折してしまった。もう少し頑張っていれば、物事を継続し、最後まで貫徹する大切さを学ぶことができたのかもしれないが、いまもう一度やり直すことができたとしも、結局また途中で辞めてしまうと思う。人間は簡単には変われない。もういい歳なので、自分という人間の適性や偏屈さがよく分かっている。

 

 村上春樹もチーム競技が苦手だと書いてた。予想通りと言えばそれまでだけど、世界のムラカミもそんな風に考えるんだと思ってほっとした覚えがある。

 僕はチーム競技に向いた人間とは言えない。 良くも悪くも、これは生まれつきのものだ。 サッカーや野球といった競技に参加すると(子供の時は別として、そういう経験は実際にはないけれど)、いつもかすかな居心地の悪さを感じさせられた。 兄弟がいないことも関係しているかもしれないが、他人と一緒にやるゲームにどうしてものめり込めない。 またテニスみたいな一対一の対抗スポーツもあまり得意とは言えない。


 スカッシュは好きな競技だが、いざ試合となると、勝っても負けても妙に落ち着かない。 格闘技も苦手だ。


 もちろん僕にだって負けず嫌いなところはなくはない。 しかしなぜか、他人を相手に勝ったり負けたりすることには、昔から一貫してあまりこだわらなかった。 そういう性向は大人になってもおおむね変わらない。 何ごとによらず、他人に勝とうが負けようが、そんなに気にならない。 それよりは自分自身の設定した基準をクリアできるかできないか---そちらの方により関心が向く。 そういう意味で長距離競争は、僕のメンタリティにぴたりとはまるスポーツだった。 

 

走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹

 

 いかにも村上春樹らしく、達観しているというか、一貫性があるというか、読んだ当時妙に納得した。「まるで自分の気持ちを代弁してくれているようだ」という感覚を読者に与えるのが村上作品の最大の魅力だと思う。その術中にまんまとハマってしまったのだ。ただ、この文章に大いに共感しつつも、僕はもちろんここまで割り切って考えることはできない。僕がチーム競技に感じる違和感には、もう一つコミュニケーションの要素がつき纏っているからだ。

 

 僕は非常に内向的な性格だ。そんなひきこもり気質の自分は、仲間と円滑にコミュニケーションを取りながら、チームに貢献することがうまくできなかった。それにチーム競技の残酷さにいつも苦しんだ。上手い選手と下手な選手は一目瞭然で、そこには圧倒的なヒエラルキー(暴力と言ってもいいだろう)が存在する。足が遅かったり、ミスが多い人間は、周囲からの絶え間ないダメ出しに晒される。コーチもチームメイトも容赦しなかった。それが僕が感じたチームスポーツの怖さだった。スポーツが得意というだけで、一部の人間は威張り続け、一部の人間は怒鳴られ続ける。その暴力性が恐ろしかったのだ。

 

 僕がいま好きなスポーツは、水泳と自転車とランニングだ。迷わず即答できる。いわゆる有酸素運動だけど、自分が設定した目標を目指して、自分のペースでもくもくと取り組めるのが性に合っている。チームスポーツに感じた暴力性やヒエラルキーとも無縁。穏やかに自分と向き合う世界、それが何よりも好きだ。もちろん現在でも機会があれば、フットサルやバドミントンのダブルスなどをすることがある。レクリエーションとして楽しんでやる分には気が楽だ。しかし、そこに強い競争原理が働き、得手不得手の圧倒的な断絶が生まれたなら、僕はやはりそこからドロップアウトしたくなってしまう。ナイーブだとか、プライドが高いと言われれば、返す言葉はない。でも、運動が苦手な人の中には、分かってくれる人がいるんじゃないかという気もする。もしそうだったら、とても嬉しいです。